静かなブーム「仙台真田氏」、真田幸村の子孫が伊達家の家臣となった理由とは

真田幸村血脈の郷・蔵王町

真田丸のNHK大河ドラマが2016年放映

真田幸村という名前でよく知られている戦国武将の真田信繁は、その個性的な生き方が多くの人によって現在まで語り継がれています。

2016年の大河ドラマ・真田丸は、真田幸村の生涯を描くもので、信州・上田がストーリーのメインですが、真田氏の子孫が仕えた伊達家・仙台の地、そしてゆかりのある蔵王町や白石も脚光を浴びそうです。

以前の記事でも紹介した雑誌・仙台経済界の2015年9月-10月号では、2014年から仙台の「伊達武将隊」に真田幸村が加わっていること、蔵王町が6年前から「真田幸村血脈の郷」というPRを行っていること、2年前から蔵王の地元有志が真田氏関連のiPhoneケースや陶器、手ぬぐいなどのグッズを開発・販売していることなどが取り上げられていました。


今回の記事では、仙台真田氏を取り上げ、真田幸村の子孫が伊達家の家臣となったいきさつを紹介していきます。

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幸村の父・真田昌幸

真田幸村の父・真田昌幸はもともとは甲斐の戦国武将である武田家に仕えていたのですが、武田家は尾張の戦国武将である織田信長に滅ぼされてしまったため、昌幸は信濃の地で再独立した戦国大名として活動するようになります。

このような時に昌幸の信濃支配の大きな障害となったのが、武田家の滅亡後、甲斐や信濃に侵攻を始めた徳川家康でした。

もともとこの土地は織田信長が新たに支配をしていたのですが、武田家を滅ぼした後まもなく、織田信長も家来の明智光秀の謀反に遭って殺害されてしまったので、織田信長の支配が浅かった信濃や甲斐などの地域は混沌とした状況になります。

このような事態を見計らって信濃に侵攻してきた徳川家康と真っ向から対峙したのが昌幸でした。

昌幸は巧妙な戦術を用いて戦上手として知られていた徳川家康を何度も撃退します。

昌幸と徳川家康の因縁はこの時から始まります。

その後に起こった関が原の戦いでは昌幸は西軍に属して、家康の三男で関ヶ原に向かおうとしていた徳川秀忠の足止めに成功します。(第二次上田合戦。通称:上田城の戦い)

ですが関ヶ原の戦い自体は小早川秀秋の裏切りにより、わずか一日で家康の東軍の勝利が決定します。

昌幸の長男の信之は東軍に属していたために、真田家は江戸時代もこの地で支配を続けましたが、昌幸と次男の信繁は西軍に属していたために高野山に幽閉されてしまいます。

昌幸はそれからしばらくして亡くなったのですが、次男の幸村は再起を図るためにそれからしばらくして起こった豊臣家と徳川家の戦争に参加すべく、豊臣方の大阪城に息子である真田大助・守信と一緒に入城します。

真田幸村と大阪の陣

真田幸村は二度にわたる大阪の陣で目まぐるしい活躍を見せたのですが、最後は長男の大助と共に討ち死にしてしまいます。

しかしこの時、幸村の次男である守信は大阪の陣で敵対した伊達家に匿われて命を救われます。
それは伊達家の重臣である片倉重長が、守信の姉でもある阿梅の夫であったから、とも言われています

このような因縁があったために守信の子孫は以後、伊達家の家臣となり、この守信を始祖とする家は信州の真田家の本家と区別するために仙台真田氏という名前で呼ばれるのが一般的です。

仙台真田氏と蔵王町

伊達家の家臣となった真田氏

仙台真田氏は江戸時代を通じて、仙台に住んで伊達家の家臣として働きました。

仙台藩士となった時にこの家系に与えられたのは、現在の宮城県の刈田郡蔵王町東部の矢附と曲竹という土地です。(このため、蔵王が仙台真田氏の血脈の郷とされています)

この場所で300石ほどの領地を与えられて、仙台藩士としての役目を務めました。

阿梅が片倉重長のもとに嫁いでいたからこのような仙台にこのような有名な家系が残されることになったのですが、仙台にこうした家系があるということ自体、一般的にはあまり知られていないのが現状です。

蔵王町は、伊達政宗の家臣である片倉景綱(片倉小十郎)の居城である白石城が人気のスポットとなっていますが、その次の波として、冒頭のような仙台真田氏の地としてのPRによる注目度アップが期待されます。

2015年は、蔵王山の噴火警報発令による観光へのダメージがかなり大きかったため(今は警報解除となり安全な状況です)、仙台真田氏という話題で、また地元を盛り上げて欲しいです。


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