東北一の歓楽街・仙台市国分町の衰退と発展の歴史

仙台の歓楽街・国分町とは

仙台の国分町で飲み!
 

仙台市の歓楽街である国分町は、仙台市民の方はほぼ必ずと言って良いほど、主に飲み会の時などで行ったことがある場所だと思います。

 

国分町はJR仙台駅から歩いても15分程度のところにあり、駅前から中央通りのアーケード街を通り、突き当りの一番町通りを右折、5分ほど北に歩いてフォーラス前にたどり着けば、平行して延びる国分町通りの繁華街がすぐそばにあります。

そして、国分町通りを中心に、稲荷小路、虎屋横丁など縦横に走る巾の狭い街路に沿って、飲食店が立ち並ぶ一帯の通称を、国分町と呼びます。

なお、現在は仙台市地下鉄南北線の広瀬通駅が最寄り駅となっていますが、仙台市地下鉄東西線の開通後は、青葉通一番町駅も直近の最寄り駅となります。(→仙台地下鉄東西線の路線図を眺めて改めて気づいたこと)

 

さて、国分町は現在、一般的に仙台のみならず東北一の歓楽街として知られます。

しかしそれは夜だけのことで、日中は100mほど東に平行して延びる一番町通りが買い物客で混雑する商業の中心であり、昼間の国分町は主にビジネス中心の町。

そして、国分町の歴史は、この一番町との間で交互に盛衰を繰り返す歴史でした。

 

今回はこの国分町の誕生とこれまでの歴史について取り上げていきます。

 

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仙台藩の国分町の誕生

仙台を見守る伊達政宗騎馬像

 

また、
江戸時代、伊達政宗が開いた仙台藩には、江戸へ伸びる奥州街道が通っていました。

南北へ通る奥州街道と交差する形で、青葉城から東へ道が延び、奥州街道と交差する地点を芭蕉の辻と呼び、城下のにぎわいの中心でした。

芭蕉の辻は、城下建設の際、町割りの基点となったところで、奥州街道の芭蕉の辻一帯を国分町と呼び、宿場や商店で繁栄していきました。

 

その後、変化が現れたのは、明治維新によってです。

廃藩置県により職を失った武士階級の中から一番町を商業で発展させ、武士の生活を支えようという動きが生まれ、一番町に商業を誘致し、武士の業種転換をはかりました。

初期はまだ、一番町はわずかの変化にとどまりましたが、一方国分町は遊女屋の営業が許可され、仙台での商業地としての優位は揺るぎませんでした。

 

 

明治以降の国分町の衰退と発展

東北線の開通による一番町の発展と国分町の衰退

 

次の変化は、明治20年の東北本線開通によります。

これを期に、新興の商人や県外からの商業資本が、開発の遅れていた一番町を出店の場に選び、一番町の商業は一気に発展しました。

 

反対に、芭蕉の辻一帯は街道の町としての意味を失って商業は衰退。国分町には銀行や保険などの事務関係の業態が進出して来ました。

昭和8年に仙台三越が一番町に開店し、仙台商人は、これに対抗するため、同じ一番町に藤崎を開店し、仙台は一気に百貨店時代に突入し三越と藤崎を結ぶ一番町の繁栄は決定的となりました。

 

 

戦後の高度経済成長期に入り、先に出店していた銀行などの多くが仙台駅前に移転し空白地が生じ、時代の要請もあって飲食店などのの雑居ビルが建設され、現在の歓楽街としての町が出来上がっていきます。

その当時は、仕事帰りのサラリーマンだけが歩く町だったそうですが、近年は学生や女性のグループも多く、にぎわいを増しているように思えます。

 

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