語り継がれる多賀城の「末の松山」と津波の歴史

津波の言い伝えが残る多賀城の末の松山

今回記事に取り上げる末の松山とは、現在の宮城県多賀城市周辺にあたる地域で、多賀城市八幡にその史跡があります。

この末の松山とはJR多賀城駅からは約10分程の位置にあり、かつてこの辺りは海が間近まで広がっていた地域でした。

どんな災害時もこの末の松山まで津波が来る事はなかったようで、津波がここまで到達しないという言い伝えから(※)、東日本大震災の発生時に周辺住民がこの場所に避難したことは有名な話です。

(※): 津波が決して来ない事を、何があっても変わらない事の例えとして後拾遺集に和歌が読まれています

さて、この地域は東日本大震災に限らず地震が頻繁に発生する場所としても知られており、以前、本ブログで「津波避難タワーの欠点とは何か」の記事で書いた宮城初の津波避難タワーもこの近くの仙台市中野地区にあります。

津波避難タワーの欠点とは何か
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2016-12-04 13:54

以下、この一帯を襲った地震の歴史について書いていきます。

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多賀城、末の松山を襲った地震の歴史

過去に、この辺り一帯を襲った規模の大きい地震としては、マグニチュード8.3以上を記録したとされる平安時代の貞観地震などがありますが、いくつか例を挙げて紹介します。

歴史を紐解いてみると、確認できる最も古い地震は850年の出羽国地震で、マグニチュードは7を記録しています。

その次はわずか13年後の863年で越中越後地震と呼ばれる地震が発生しました。

その後は富士山をはじめとする火山の活動の影響が強い状態が続いていましたが、それでも5年後の868年には播磨山城地震と呼ばれるマグニチュード7の地震が発生しました。

この地震は余震が長く続き、7月30日に発生したにもかかわらず、翌年869年1月になっても余震が発生していたと伝わっています。

その次に発生した地震が869年7月13日の貞観地震です。

この貞観地震に牽引されたのか鳥海山や開聞岳などで再び火山活動が盛んになり、9年後の878年に相模武蔵地震(マグニチュードは7.4)、その2年後の880年に出雲地震(マグニチュード7)が発生しています。

そして887年、歴史の中では最大規模である仁和地震が発生。この地震はマグニチュードは8から8.5とも言われていますが、これらいずれの地震の際にも、発生した津波が末の松山を超えることはなかったと言われています。

末の松山の伝承と今後の津波避難について

末の松山の歴史

最後になりますが、この末の松山に関する伝承などを見ていきます。

地元に伝わる江戸時代周辺の民話を収録した多賀城史によると、内容にバリエーションはあっても「津波の際は末の松山に逃げろ」と言う文面は統一されており、当時の住民の間でも信頼が高かった場所であることが伺えます。

冒頭に少し触れた和歌においても、読んだ歌人が末の松山の絶対さを信じていたからこそ生まれたと言えます。なお、この歌人は当時京都におり、東北から離れた場所にまで伝わっていたことも、信ぴょう性の高さを表しています。

また和歌が現在にまで語り継がれてきた事は、同時に1000年以上に渡って末の松山が津波に強い土地であるということになります。

この段階では、あくまで歌や物語の中でのみの論拠ですが、実際に、東日本大震災の津波遡上域は末の松山を含んでいません。

東日本大震災のマグニチュードは9.0で、これは日本史上最大の地震で、この規模の大地震で発生した津波であっても末の松山を超えることがない以上、この地域はこれからも津波に強い土地であると語り継がれていくことと思います。

なお、この末の松山は「日本一低い山」である仙台日和山の近くにある蒲生干潟と共に、東北お遍路プロジェクトの巡礼地に指定されています。


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