震災からの復旧を目指す、貞山運河の誕生秘話とその歴史

津波で破壊された貞山運河

貞山運河は阿武隈河口から名取川、七北田川、塩竈湾を結ぶ32.5kmの運河です。

仙台藩主である伊達政宗公の時代から約300年間に渡って開削と維持が続けられてきた運河で、非常に長い歴史がありますが、先の東日本大震災による津波で破壊されてしまい、現在は27年度中を目標に修復が進められています。

今回はこの貞山運河の誕生秘話やこれまでの歴史について取り上げていきます。

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貞山運河の誕生

貞山運河が掘り始められたのは410年以上前の慶長年間で、そこから明治5年までかけて整備されました。(その年数、なんと約280年間)

貞山運河で最初に掘り始められたのは木曳堀そして御舟入堀でした。

それが明治16年から23年の堀改修事業の時に、当時の県の職員が伊達政宗公の偉業を称えるため、伊達政宗公のおくり名である「貞山」から名前を取り、貞山堀と名付けました。

そして現在呼ばれている貞山運河という名称になったのは明治16年から始められた貞山堀改修のタイミングでした。

運河取締規則の中で「運河と称するは、野蒜東名及び貞山の各運河を云う」となったことがきっかけで、貞山堀は貞山運河に改称されました。

貞山運河整備の歴史

歴史的にこの運河が掘られることになった理由は、伊達政宗公が仙台城を作ろうとしたことがきっかけでした。

仙台城とその城下町は、現代の大崎市岩出山にあたる玉造郡岩出山城から国分氏の旧城だった千代城跡に造営されたのですが、この時に使う木材の輸送と沿岸の名取谷地の開発を、主な目的としていました。

また、万治元年から寛文13年頃にかけて御舟入堀は藩領北部と仙台城下を結ぶ貢米を主とした物資輸送を目的として掘られました。

そして、蒲と閖上間の9.5kmは明治3年から5年にかけて開通し、この区間は新堀と呼ばれています。

明治11年頃からは明治政府が鳴瀬川の河口である野蒜に、一大貿易港の建設を目的とした北上運河を開削。翌年12年には内港が、そして東名運河は明治16年から開削されました。

しかし、北上運河は明治14年、東名運河は明治17年に完成し、内港も明治15年には完成したものの、明治17年の台風によって内港の突堤が壊滅状態となり、結局外港に着手することがないまま、打ち切りとなってしまいました。

※なお、この野蒜築港については、以前書いた仙台鉄道の記事で少し触れていますので、宜しければ併せてご覧ください。(→今は無き仙台鉄道、その路線図や歴史を訪ねる)

貞山運河の現代の利用法と復旧について

仙台空港と貞山運河

木材輸送に関しては昭和40年頃までは間違いなく利用されており、比較的近年まで運河が輸送経路として利用されていたことが分かります。

また、現在の貞山運河は漁業の営み、農業用水排水、環境面での雨水排水などの他、自然体験学習やレジャーなどにも利用されており、被災時などに仙台市街地や泉中央・長町各副都心方面への物資運搬も計画されていましたが、津波で貞山運河そのものが破壊されたため、この計画は頓挫したままとなっています。

なお、震災においては津波の勢いを軽減へ一定の効力があったことが分かっており、減災を目的に防波堤の役割を担う存在としても復旧が進められており、地域振興にも活用するための「貞山運河プロジェクト」も発足がされています。(貞山運河で地域振興 プロジェクト発足: 河北新報 Online News)

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